政財界から文化・スポーツまで、秀でた功績を残した人々の死亡記事-obituary-で綴るブログ「死亡欄」。(敬称略)
Today's Obituary

180px-Zoritch.jpg

ロシア出身の元バレエダンサーで元アリゾナ大学教授のジョージ・ゾリッチ(George Zoritch)、米アリゾナ州タクソンで1日死去、92歳。

1917年モスクワ生まれ。ロシア革命後、家族でリトアニアに移住。14歳でパリに移り、35年バレエ・リュス・ド・モンテカルロに参加し、中心スターとして国際的舞台で活躍する。映画「バレエ・リュス 踊る歓び、生きる歓び」などにも出演した。

64年ウエスト・ハリウッドにバレエ学校を開設。73−87年までアリゾナ大学教授を務める。




元中国副首相の谷牧、北京市内で6日死去、95歳。

1914年山東省生まれ。中国成立後の54年政界に進出。75−82年まで副首相を務める。この間78年から改革・開放政策を推進したトウ小平の右腕として日中経済交流を推進した。大平正芳首相(当時)時代の79年に日本の対中ODA導入に貢献した。その後も国務委員、全国人民政治協商会議副主席を歴任。




watanabibe.jpg

東京芸術大学教授で現代美術家の渡辺好明、心不全のため千葉県内の自宅で4日死去、54歳。

1955年兵庫県生まれ。80年東京芸術大学美術学部絵画科油画卒業。82年同大学院壁画研究室修了。85−89年までデュッセルドルフ美術アカデミーに留学。東京芸術大学助手、講師、助教授をへて、06年同大学教授に就任した。




aung03c.jpg

ミャンマー前外相のウィン・アウン(Win Aung)、ヤンゴンのインセイン刑務所の独房で4日死去、65歳。

1944年ミャンマーのダウェイ生まれ。軍情報部に勤務後、旧宗主国の英国大使を務める。98年外相に就任。
民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーらへの弾圧で国際的な批判にさらされるミャンマー軍政の中では穏健派として知られる。軍政の方針への理解を国際会議などで訴え続けた。04年汚職で解任されたキン・ニュン首相と連座するかたちで更迭され、国有財産不正使用罪で禁固7年の判決を受けて服役していた。




ikuta_3.jpg

東映東京撮影所長の生田篤、肺癌のため東京都板橋区の病院で4日死去、65歳。

1944年新潟県生まれ。62年東映に入社、東京撮影所製作部に配属。65年以降関係会社数社に出向し、85年同社東京撮影所に復帰。03年東京撮影所長、04年取締役に就任。あわせて03年関係会社の東映テレビ・プロダクション社長に就任。




muto20451

元外相の武藤嘉文、膵臓癌のため東京都内の病院で4日死去、82歳。出身。葬儀・告別式は未定。

1926年岐阜県生まれ。京都大学法学部を卒業し、ファミリー企業の武藤醸造(現:菊川)に入社。59年武藤本店社長に就任。

67年衆院総選挙に旧岐阜1区から自民党公認で立候補し当選。以後13回連続当選。渡辺美智雄の側近として知られる。79年第2次大平内閣で農林水産大臣として初入閣。90年通産大臣、93年外務大臣、95年自民党総務会長、96年総務庁長官などを歴任。05年衆院選を前に引退した。




claude_levi-str053.jpg

フランスの社会人類学者・思想家クロード・レビ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)、10月31日死去、100歳。

1908年ブリュッセルのユダヤ人家庭に生まれる。パリ大学で法学、哲学を専攻。30−39年までブラジルの大学で教鞭をとり、ボロロ族の現地調査などを行う。39年帰国して西部戦線に従軍。41−44年までナチスの迫害を逃れて米国亡命。音韻論などの構造言語学の方法論を着想し、戦後フランスで実存主義と並ぶ思想的流行となった構造主義思想を開花させる。
49年論文「親族の基本的概念」で構造人類学を樹立した。55年ブラジルでの旅の記録をまとめた「悲しき熱帯」を出版。58年論文「構造人類学」を発表。59年コレージュ・ド・フランス教授に就任。62年論文「野生の思考」を発表し、サルトルの実存主義を強烈に批判した。

73年フランス学界最高権威のアカデミー・フランセーズ正会員に選出された。同年エラスムス賞受賞。

■著作:構造人類学
■著作:野生の思考



FranciscoAyala.jpg

スペインの小説家フランシスコ・アヤラ(Francisco Ayala)、マドリッドで3日死去、103歳。

1906年スペインのアンダルシア地方グラナダ生まれ。19歳で最初の小説(Tragicomedia de un hombre sin espíritu)を出版。スペイン内乱の期間、国を離れる。戦後39−50年までアルゼンチンで暮らす。社会学を教えながら小説や文学評論を出版する。50年からプエルトリコに移り、さらに米国に移住し、プリンストン大学やニューヨーク大学などで教鞭をとる。56年約20年ぶりに帰国。独裁が終わったあとの78年最終的に帰国した。
「犬の死」などの小説やエッセーを発表し、独裁を生んだ背景などを小説に描き、ノーベル文学賞候補に何度も取りざたされた。