Today's Obituary

世界最高齢とされる豪州ブロガーのオリーブ・ライリー(Olive Riley)、同国ニューサウスウェールズ州の療養所で12日死去、108歳。
1899年生まれ。調理人などをしながら3人児を育て、2つの世界大戦を経験。4年前ドキュメンタリーを撮影したマイク・ラッボさんの提案で、07年2月からブログ開始。1900年代初期の洗濯の仕方を紹介し現代と比べるなど、鮮明な記憶を基につづった文章が人気を呼び、米国やロシアなど世界中に読者がいた。

カルドゾ・ブラジル前大統領夫人で人類学者のRuth Cardoso)、サンパウロの自宅で24日死去、77歳。
1930年サンパウロ州アララクアラ生まれ。53年カルドゾと結婚。サンパウロ州立大で人類学を学び、75年同大教授。ラテンアメリカ社会科学大学、チリ大学、米カリフォルニア州立大学バークレイ校、米コロンビア大学などでも講義。
72年の博士論文で、同州の日系人がブラジル社会に同化する過程を調べるなど、日本通としても知られた。

中国撮影家協会主席で毛沢東主席の次男の妻である邵華(Shao Hua)、病気のため北京の病院で24日死去、69歳。
1938年中国革命根拠地の陝西省延安生まれ。毛主席の次男。59年北京大学に入学、66年同卒業。その間の60年毛沢東主席の次男・毛岸青(昨年3月に死去)と結婚。79年中国共産党に入党。人民解放軍軍事科学院の副部長も務めるかたわら、作家としても知られる。84年から中国作家協会会員。

異人種間の結婚を禁じた州法は違憲との米最高裁判決を引き出した黒人女性ミルドレッド・ラビング(Mildred Loving)、肺炎のためバージニア州セントラルポイントの自宅で2日死去、68歳。
1939年バージニア州生まれ。58年幼なじみの白人男性リチャード・ラビングと結婚する際、異人種間の結婚を禁じる州法のため、隣接する首都ワシントンで届け出。州内で新婚生活を始めたが、5週間後の朝に警察が家に踏み込み夫妻を逮捕。不法同居の罪で有罪判決を受けた。
夫妻は州法が違憲と提訴。州の裁判所は「神は人種が混じることを意図していない」などとして訴えを退けたが、67年連邦最高裁が憲法修正14条「平等保護」の原則にり結婚を認めた。
夫のリチャードは75年交通事故で死去。

1944年にアドルフ・ヒトラーを暗殺を企てたドイツ軍将校団の最後の生存者フィリップ・フォン・ベーゼラーガー(Philipp von Boeselager)、1日死去、90歳。
1917年ボン近郊のハイマーツハイム生まれ。アロイシウス大学卒。43年強力な機動部隊としてベーゼラーガー騎兵隊が編成される。44年7月20日ヒトラー総統の地下作戦会議室にブリーフケースに仕掛けた時限爆弾を設置し、暗殺を試みた。しかし、ヒトラーは軽症を負っただけで計画は失敗した。事件後、リーダーの陸軍大佐クラウス・グラフ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク(Claus Philip Maria Schenk von Stauffenberg)ら実行グループの大半が拘束・処刑された。
元全国労働組合総連合議長の大江洸、頬粘膜がんのため17日死去、78歳。
1929年京都府生まれ。同志社大学を卒業。京都府庁、元自治労連委員長、元全労連議長。その後、労働総研(労働運動総合研究所)代表理事。
1929年京都府生まれ。同志社大学を卒業。京都府庁、元自治労連委員長、元全労連議長。その後、労働総研(労働運動総合研究所)代表理事。

スペースシャトルで3度宇宙に行った米宇宙飛行士のデビッド・ロウ(G. David Low)、大腸癌のためノーザン・ヴァージニアの自宅で15日死去、52歳。
1956年オハイオ州クリーブランド生まれ。父は68年のアポロ8号に計画に携わった。78年ワシントン&リー大学(物理工学)、80年コーネル大学(機械工学)を卒業。82年スタンフォード大学(航空・宇宙工学)で修士号取得。
84年NASAの宇宙飛行士となる。90年スペースシャトル「コロンビア」で11日間宇宙を飛行。その後91年、93年とスペースシャトルに搭乗。

国際自動車連盟(FIA)前会長のジャン=マリー・バレストル(Jean-Marie Balestre)、27日、86歳。
1921年フランスのサン・レミ・ド・プロヴァンス生まれ。第2次世界大戦後、自動車ジャーナリストとして雑誌「Auto Journal」創刊。50年フランス自動車スポーツ連盟(FFSA)の設立に関わり、73年会長就任。78年国際自動車連盟の国際スポーツ委員会(FIA-CSI)会長に就任、組織を改編。国際自動車スポーツ連盟(FISA)を設立。
78年FISA会長に就任。以降13年間会長職にあって、独裁的に組織を運営した。
80年「FISA・FOCA戦争」でF1分裂騒動が起こる。81年コンコルド協定で和解。これによりFOCAはF1商業権を獲得、FIAはF1競技規約と技術規約の決定権を得た。
86年FIA会長に就任、車輌安全規格の強化など安全対策を実施。
89年日本GPでアラン・プロストと接触したアイルトン・セナをFIAが失格処分に。バレストルがセナのスーパーライセンス剥奪を示唆したことで、同国人のプロストへのを身びいきしているのでは」という報道もなされた。
91年FISA会長選挙でマックス・モズレーに敗れ、93年FIA会長選挙でもモズレーに地位を譲った。モズレーは「FISA・FOCA戦争」でFOCAバーニー・エクレストン会長の法律顧問を務めた人物。
93年FISAはFIAの下部組織となる。バレストルは96年までFFSAの会長職を務めた。


