Today's Obituary

ドキュメンタリー映画監督の土本典昭、肺癌のため千葉県南房総市の病院で24日死去、79歳。
1928年岐阜生まれ。46年早稲田大学入学。全学連副委員長を務め、52年早大事件の不法集会の責任を問われ文学部除籍。54年日中友好協会事務局に就職。
56年岩波映画製作所に臨時雇員として入社、羽仁進らに師事。57年退社しフリーとなる。羽仁監督の60年「不良少年」で監督補佐などを務める。
65年胎児性水俣病を取材したテレビドキュメンタリー番組「水俣の子は生きている」を発表。71年「水俣−患者さんとその世界」、73年「水俣一揆、75年「不知火海」など16本の水俣病をテーマにしたドキュメンタリーや記録映画などの製作。海外でも高く評価された。
このほか79年中野重治の葬儀の記録「偲ぶ・中野重治」、84年原子力行政と漁業者の攻防を描いた「海盗りー下北半島浜関根」などを製作した。

映画評論家の水野晴郎(本名:和夫)、肝不全のため東京都内の病院で10日死去、76歳。
1931年岡山県生まれ。父は軍人で戦時中はを蒙古、中国、満州で過ごす。戦争終結直前に士官候補生として陸軍入隊。終戦後は母親や弟妹らと約2年間満州を放浪したのち46年帰国。岡山で9年間を過ごし、働きながら夜間高校を卒業。
56年上京し、24歳で米映画会社・20世紀フォックスの宣伝マンになる。宣伝部長を務めたのち、日本ユナイト映画の宣伝総支配人となる。71年10月から日本テレビ系「水曜ロードショー」の解説を担当。72年独立し、洋画配給会社「IP(インターナショナルプロモーション)」を設立。そのかたらわ慶応義塾大学国文科を9年かかって通信教育で卒業。83年参院選で新自由クラブ民主連合の名簿第3位で立候補したが、落選。
95年初監督作「シベリア超特急」の製作を発表、自ら山下奉文大将役で出演。その後「シベ超」の愛称でシリーズ化される。このほか世界の警察を回り、米国では警察学校に通ったのち約10年間警察官を務めた。米国の大学への論文が認められ、警察学博士号・芸術学博士号、社会学博士号を授与。日本アカデミー賞、ゴールデン・グロス賞、日本映画批評家大賞の発案者で、日本映画の発展に尽力した。
倉敷芸術科学大学教授、大阪芸術大学客員教授。

放送作家で演出家の塚田茂、13日死去、82歳。
1926年東京都生まれ。45年東宝入社。その後、日劇演劇部で舞台演出家を務めた。55年「ガラクタ狂想曲」で放送作家デビュー。以後「夜のヒットスタジオ」「シャボン玉ホリデー」「8時だョ!全員集合」などテレビ番組史上に残る番組の立ち上げに参加。53-76年までと81-86年まで「NHK紅白歌合戦」の構成にも参加した。
70年代に放送作家の養成を目的として「スタッフ東京」を設立。高田文夫や玉井貴代志らを育成した。

映画・テレビ編集者の諏訪三千男、就下性肺炎のため東京都大田区の自宅で12日死去、70歳。
1937年東京都生まれ。66年「喜劇・駅前漫画」、70年「俺の空だぜ!若大将」、76年「君よ憤怒の河を渉れ」などの映画や、82年テレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」の編集を手掛けた。

映画監督の原田昌樹、心不全のため東京都江東区の病院で28日死去、52歳。
1955年長野県生まれ。長野県屋代高等学校卒業。東映、大映、三船プロダクション、フィルムリンク・インターナショナル等で助監督を務める。92「裏刑事」でデビュー。9テレビ「ウルトラマンシリーズ」を手がけたほか、最近では裁判員制度の広報映画「審理」などを手掛けた。
教育映画で4年連続文部科学省特選。2度の文部科学大臣賞受賞。

映画「ビルマの竪琴」「東京オリンピック」などで知られる戦後の日本映画界をリードした映画監督の市川崑(本名:市川儀一)、肺炎のため東京都内の病院で13日死去、92歳。
1915年三重県宇治山田市(現:伊勢市)生まれ。4歳で大阪へ移る。33年J・O(後の東宝)に入社、36年当東宝に移る。48年「花ひらく」で監督デビュー。同年、後に脚本共作者となる和田夏十(83年死去)と結婚。
55年日活に移り51年「ビルマの竪琴」(85年再映画化)などを監督、その後大映に転じ58年「炎上」59年「鍵」「野火」などを撮る。65年「東京オリンピック」を監督。記録か芸術かの物議をかもした。
72年監督・監修を手がけた連続テレビ時代劇「木枯し紋次郎シリーズ」が話題を呼ぶ。76年「犬神家の一族」など石坂浩二主演の金田一耕助シリーズが大ヒット。90歳を迎えた06年石坂浩二主演で「犬神家の一族」をリメーク。
56年「ビルマの竪琴」アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、59年「野火」ロカルノ国際映画祭グランプリ、60年「鍵」カンヌ国際映画祭審査員賞・ゴールデングローブ賞外国語映画賞、83年「細雪」アジア太平洋映画祭グランプリ・同監督賞など受賞多数。
82年紫綬褒章、88年勲四等旭日小綬章など。
映画監督で映像文化協会代表の高岩仁、肝細胞癌のため29日死去、72歳。
1935年福岡生まれ。東京写真短期大学卒。57年東映株式会社に入社、編集部員となる。69年退社しフリーカメラマンに。71年劇映画「どぶ川学級」、75年から「公害原論」「水俣一揆」「実録公調委」など、公害反対の記録映画を撮影。89年「日の丸と君が代」、90年から「教えられなかった戦争」(マレー半島編)、(フィリピン編)、(沖縄編)の戦争関連シリーズを製作した。
1935年福岡生まれ。東京写真短期大学卒。57年東映株式会社に入社、編集部員となる。69年退社しフリーカメラマンに。71年劇映画「どぶ川学級」、75年から「公害原論」「水俣一揆」「実録公調委」など、公害反対の記録映画を撮影。89年「日の丸と君が代」、90年から「教えられなかった戦争」(マレー半島編)、(フィリピン編)、(沖縄編)の戦争関連シリーズを製作した。
シナリオライター兼放送作家の鳥海尽三、肝臓癌のため東京都新宿区の病院で17日死去、78歳。
1929年北海道空知郡滝川町(現:滝川市)生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業。学生時代から映画脚本家の陶山鉄と松浦健郎に師事。
64年虫プロダクション入社、文芸部に所属。65年タツノコプロに契約社員として移籍。その草創期から70年代まで、ほぼ全作品の企画・脚本を手掛けた。主な作品に「昆虫物語みなしごハッチ」「科学忍者隊ガッチャマン」「ヤッターマン」など。
シナリオサークル鳳工房主幹、早稲田シナリオ義塾講師、代々木アニメーション学院講師を務めていた。
1929年北海道空知郡滝川町(現:滝川市)生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業。学生時代から映画脚本家の陶山鉄と松浦健郎に師事。
64年虫プロダクション入社、文芸部に所属。65年タツノコプロに契約社員として移籍。その草創期から70年代まで、ほぼ全作品の企画・脚本を手掛けた。主な作品に「昆虫物語みなしごハッチ」「科学忍者隊ガッチャマン」「ヤッターマン」など。
シナリオサークル鳳工房主幹、早稲田シナリオ義塾講師、代々木アニメーション学院講師を務めていた。


