Today's Obituary

イラクの元大統領サダム・フセイン(Saddam Hussein)、バグダッドで30日早朝絞首刑により死去。69歳だった。
一審にあたる高等法廷で、82年にドゥジャイル村のイスラム教シーア派住民148人を虐殺した「人道に対する罪」により死刑判決を受け、12月26日に控訴院が判決を支持し死刑が確定していた。
米英主導のイラク戦争で旧政権が崩壊してから3年半、米軍に身柄を拘束されてから3年だった。
1937年4月バグダッドの北約150kmのティクリート近郊アル=アウジャ村で羊飼いの家庭に生まれる。すでに父は亡く、母はまもなく再婚する。
55年バグダッドでバース党に入党。59年カーセム首相暗殺未遂事件を起こし、シリアを経てエジプト亡命。その際、欠席裁判により死刑宣告を受けた。
エジプト亡命中にカイロ大学法学部に学ぶ。63年バース党がイラクで政権を奪取しため、帰国して同党の要職に就く。しかし、第一次バース党政権は短命に終わり、64年フセインは逮捕投獄された。66年脱獄。党の実力者となっていった。
68年党はクーデターで再び政権を掌握し、フセインは革命指導評議会副議長に就任。79年大統領に就任する。
80年から8年間、イラン=イラク戦争を指揮。90年クウェート侵攻で、翌年の湾岸戦争を招き多国籍軍に敗退する。
米国はイラクが大量破壊兵器を破棄していないとして、03年3月20日再びイラクを攻撃。同年4月9日バグダッドは陥落した。
なお、男尊女卑の強いイスラム圏では婚前・婚外交渉を行った女性に対して「名誉の殺人」が常態化していたが、フセインはこれを批判していた。

戦前から活躍した国内作曲界の長老である安部幸明、心不全で28日死去。95歳だった。
1911年広島県生まれ。少年期を東京で過ごし、29年東京音楽学校(現・東京芸大)チェロ科入学。33年本科を卒業後、研究科作曲部に進む。35年処女作「弦楽四重奏曲第1番」を作曲・初演、日本現代作曲家連盟に入会する。
38年作曲家の登竜門ワインガルトナー賞に「チェロ協奏曲」が入賞、一躍脚光を浴びる。
44年召集を受け、海軍水兵となる。
戦後はショスタコーヴィチらロシア作曲家を模範とした新古典主義的潮流の影響を受けつつも、独自の躍動感あふれる作風を確立していった。
広島エリザベト音楽短期大学教授や京都市立音楽短期大学教授を歴任。
代表作に全15曲の「弦楽四重奏曲」や「交響曲第1番」などがある。

1930年代に活動した旧ソ連の元スパイ、ボリス・グジ(Boris Gudz)、モスクワの病院で死去。104歳だった。
1902年ウラルのウファに生まれる。OGPU(KGBの前身)に所属し、21年から26年にかけて英国の諜報機関MI-6のスパイ、シドニー・レイリーの抹殺計画を支援。34年から36年には日本で諜報活動に従事した。帰国後、二重スパイとして活動したソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲに指示をだす。
37年にスターリンの粛清で共産党および軍から追放され、モスクワでバス運転手となった。しかし、まもなく復党し、輸送会社の長となる。60年代後末以降は、OGPUの歴史などについて作家や映画館と蔵に助言を与えるようになった。

UPI通信で長らく記者として活躍したフランク・トレメーン(Frank Tremaine)、ジョージア州サバナで7日死去、92歳だった。
UPI(United Press International)通信の前身、UP(United Press)のホノルル駐在記者(Pacific bureau)だった1941年12月7日(日本時間8日)、旧日本軍による真珠湾攻撃の第一報をUPに送った記者として知られる。これが現地の記者が送った最初の記事とされる。その日からちょうど65周年にあたる日に亡くなった。
デトロイトに生まれ、カリフォルニア州パサデナで育つ。スタンフォード大学在学中にキャンパス特派員としてUPで働き始めた。36年卒業とともに入社。その後、UPIの上級副社長となり、80年に引退した。

フランスのシャンソン作詞家ピエール・ドラノエ(Pierre Delanoe,本名:ピエール・ルロワイエ=Pierre Leroyer)、心不全で27日死去。88歳だった。
1918年パリ生まれ。大学で法学を学んだのち、税務調査官となる。48年に最初の歌詞を書き、作詞家となり、故ジルベール・ベコーが作曲し歌ったシャンソン「ナタリー」が64年に大ヒット。「オー・シャンゼリゼ」「Mr.サマータイム」「そして今は」などリリカルなシャンソンを多数を作曲した
元神戸製鋼所社長で震災時には神戸商工会議所会頭を務めた牧冬彦、呼吸不全のため神戸市中央区の病院で死去、84歳。
1922年12月大阪府生まれ。東京大学卒業。在学中に学徒出陣し2年間シベリア抑留生活を送る。48年神戸製鋼所入社。83年から87年まで同社長を務める。
その後は地元財界に貢献、95年の阪神・淡路大震災時には神戸商工会議所会頭を務めた(91.11−99.7)。
1922年12月大阪府生まれ。東京大学卒業。在学中に学徒出陣し2年間シベリア抑留生活を送る。48年神戸製鋼所入社。83年から87年まで同社長を務める。
その後は地元財界に貢献、95年の阪神・淡路大震災時には神戸商工会議所会頭を務めた(91.11−99.7)。

米国の元大統領ジェラルド・フォード(Gerald Rudolph Ford Jr)、26日死去。93歳120日だった。米大統領経験者として歴代最長寿となった。
1913年7月ネブラスカ州オマハ生まれ。当初の名前はレズリー・リンチ・キング・ジュニアだったが、父のDVで故人が2歳の時に両親が離婚。のち母がジェラルド・フォードと再婚し、故人はジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニアと改名。
ミシガン州で成長し、ミシガン大学卒業後、イェール大学ロー・スクールでに入学し弁護士資格を取得。
第2次世界大戦では海軍士官として従軍。戦後の48年にミシガン州連邦下院議員に初当選し、13期務めた。
73年にアグニュー副大統領が汚職事件で辞任し、共和党のニクソン大統領がフォードを副大統領に指名。
翌年、米国史上最大の政治スキャンダルといわれたウォーターゲート事件のためにニクソンが任期途中で辞任。憲法修正第25条の規定により、フォードは38代大統領に就任した。在任75年4月にサイゴンが陥落しベトナム戦争は終結する。
その後、76年の大統領選に出馬したが、景気回復の遅れなどから、民主党の新人候補カーターに敗れた。歴代では1度も大統領選に勝利していない唯一の大統領となった。

“ファンクの帝王”と呼ばれた米ソウルミュージックの大御所歌手ジェームス・ブラウン(James Brown=JB)、肺炎のためジョージア州アトランタの病院で25日死去。73歳。
1933年5月サウスカロライナ州バーンウェル生まれ。極貧の少年時代を送る。60年代から常にポピュラーミュージックに影響を与えつづけ、マイルス・デイヴィスもJBの影響を受けたと告白している。「ゲラップ(Sex Machine)」「プリーズ・プリーズ・プリーズ」「トライ・ミー」などのヒット曲で知られる。
1990年頃に麻薬関連で事件を起こし一時期服役。04年妻へのDVの疑いでも逮捕された。
しかし、JBを慕う人は多く、オリジナリティ溢れる歌い方やその声量、軽やかなステップは他の追随を許さない。
大手アパレルメーカー「ワールド」創業者の木口衛、腎不全のため兵庫県芦屋市の自宅で22日死去、83歳だった。
1923年9月岡山県生まれ。59年畑崎廣敏とともに神戸市でニットの製造卸売としてワールドを創業。当初は問屋への卸しだったが、取引先の倒産などを経験し、小売店への販売に転換。大手企業に成長させた。
故人は社長、会長を歴任し、95年相談役に退いた。
1923年9月岡山県生まれ。59年畑崎廣敏とともに神戸市でニットの製造卸売としてワールドを創業。当初は問屋への卸しだったが、取引先の倒産などを経験し、小売店への販売に転換。大手企業に成長させた。
故人は社長、会長を歴任し、95年相談役に退いた。

ミャンマー最大の反政府武装組織、カレン民族同盟(KNU:Karen National Union)の前議長ボー・ミャ(Bo Mya)、タイ北西部メソトの病院で24日死去。79歳だった。
1927年生まれ。第二次大戦時には英国軍に加わり、旧日本軍と戦った。戦後の49年、カレン族がビルマ(ミャンマー)からの独立を宣言。その後、ボー・ミャはKNUの議長として76年から00年までの約25年間、同組織を統括してきた。
しかかし、00年1月にKNU分派による病院襲撃事件の責任を問われ、副議長に降格。04年に病気により全役職を退いたという。

中央アジア・トルクメニスタンの大統領サパルムラト・ニヤゾフ(Saparmyrat Nyyazow)、21日死去。66歳だった。死因は発表されていない。
旧ソ連時代末期から20年以上にわたり、北朝鮮並みといわれる独裁支配を続けたトルクメニスタンの初代大統領の死去で、後継者や今後の体制が焦点となりそうだ。
1940年2月アシガバードのキプチャク村出身。42年に父が戦死し、48年に母や兄たちも地震で亡くなり、孤児となる。しかし、成績は優秀で、62年共産党員となる。67年レニングラード工業大学卒業、水力発電所の電気技師となる。
85年にトルクメン共産党第一書記に就任し、同地の政界トップの座に君臨。90年議会で独立主権宣言が採択され、同年10月国民投票でトルクメン・ソビエト社会主義共和国大統領となる。同月さらに国民投票でトルクメニスタンは独立国家と宣言された。
93年からは「トルクメン人の長」を意味する「テュルクメンバシュ」を名乗ってきた。
マダガスカルで医療支援活動を続けていた修道女の遠藤能子、心不全のため同地で16日死去。63歳だった。
1943年3月生まれ。フランシスコ修道会によって設立された天使大学(札幌市)卒業。81年世界最貧国の一つであるマダガスカルに助産師として派遣され、衛生環境の悪い地域での医療支援活動を続けてきた。
毎日新聞(83-84年)に連載された曽野綾子の小説『時の止まった赤ん坊のモデルにもなった。
1943年3月生まれ。フランシスコ修道会によって設立された天使大学(札幌市)卒業。81年世界最貧国の一つであるマダガスカルに助産師として派遣され、衛生環境の悪い地域での医療支援活動を続けてきた。
毎日新聞(83-84年)に連載された曽野綾子の小説『時の止まった赤ん坊のモデルにもなった。

漫才コンビ「カンニング」の中島忠幸、白血病による肺炎で20日死去。35歳だった。
1971年6月福岡県生まれ。福岡県立早良高等学校を卒業。小学校の同級生だった竹山隆範とコンビを組み、93年にデビュー。福岡吉本在籍中に寿司屋で板前修行していたこともある。料理の腕はプロ顔負けだという。
下積みが長かったが、最近のお笑いブームでブレーク。竹山が突然“キレ”て怒りだし、中島がなだめたり、おろおろしたりする芸風で人気を集めた。
しかし、04年末に昨年12月中旬に倒れ、精密検査の結果、緊急入院。05年1月に急性リンパ球性白血病の治療にあたっていることが明らかになった。その後、闘病生活が続いていた。

演劇集団「円」の個性派女優でエッセイや童話の作者としても知られる岸田今日子、脳腫瘍による呼吸不全のため17日死去。76歳だった。
1930年4月東京都杉並区で劇作家で文学座創設者の岸田國士の次女として生まれる。49年自由学園卒業、舞台美術をめざして文学座研修生となるが、女優に転じ翌年「キティ颱風」で初舞台。父の助言で一度舞台を離れたたが、52年再度同座に入り、「狐憑」でデビュー。
54年同じ文学座の俳優仲谷昇(先月死去)と結婚。60年三島由紀夫演出の『サロメ』で主役に抜擢される。
62年には映画『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞、64年『砂の女』でブルーリボン助演女優賞を受賞した。
その間、63年に文学座の運営に反発して、芥川比呂志らとともに脱退。「劇団雲」を経て、75年「演劇集団 円」の設立に参加する。
78年に仲谷昇と離婚。
人気テレビアニメ『ムーミン』でムーミンの声を担当するほか、若者に圧倒的支持を得た萩原健二主演のテレビドラマ『傷だらけの天使』でも個性的な役をこなした。
エッセイスト、童話作家、小説家としても活躍し、98年『妄想の森』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。

前東京都知事で作家・タレントでもあった青島幸男、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で20日死去。74歳だった。
1932年東京・日本橋の仕出し弁当店・弁菊の次男として生まれる。早稲田大学第一商学部に入学。卒業間際に結核を患い、同大学院に進学して療養生活を送る。56年同中退。
療養中に銀座でバーを経営するかたわら、放送作家としての活動を開始。『おとなの漫画』『シャボン玉ホリデー』などの構成を担当し、「青島だぁ」のギャグで一躍脚光を浴びる。作詞家としても『スーダラ節』『ハイ、それまでよ』『明日があるさ』などのヒット曲を世に送りだし、67年にはテレビ番組『意地悪ばあさん』を主演しタレントとしての活動する。
68年、参院選全国区から立候補し2位で初当選(1位は現都知事の石原慎太郎だった)、タレント議員の草分け的存在となる。71年の参院予算委員会で、自民党への政治献金の莫大さを批判して、当時の佐藤栄作首相を「財界の男妾」と呼び物議をかもした。
81年、母親をモデルにした小説『人間万事塞翁が丙午』で直木賞を受賞した。
89年には消費税法案の強行採決に抗議して議員を辞職(4期目途中)し、直後の参院選に立候補するも落選。92年の参院選で議員に復帰する。
95年、「反既成政党」を掲げて都知事選に立候補して初当選。大阪府知事に当選した横山ノックとともに“無党派層の時代”の象徴となった。知事就任後、世界都市博覧会の中止を実現させたが、二信組救済では「税金投入せず」の公約を守れず、都の食糧費公開にも消極的で、官僚・役人任せの姿勢が目立った。
99年に1期限りで知事を引退。01年、04年の参院選に出馬するも、返り咲きはならなかった。


