Today's Obituary

西陣織作家の山口伊太郎、老衰のため27日死去、105歳。
1901年京都市上京区生まれ。西陣小学校を首席で卒業。12歳の春に丁稚奉公。18歳で西陣高級帯地製造・卸売業を創業する。
西陣織物同業共同組合理事長や西陣織物館理事長などを歴任。家業を譲った後45年70歳で西陣織による「源氏物語」の創作・表現を決意。「源氏物語錦織絵巻」三巻までを完成させ(フランス国立ギメ東洋美術館収蔵)、四巻目を制作中で2010年完成予定だった。04年京都府文化賞受賞。弟の山口安次郎とともに西陣織を代表する作家。
・「山口伊太郎 100歳の仕事」

ナレーターで声優の中江真司(本名:佐藤良孝)、肝細胞癌のため東京都小金井市のホスピスで28日死去、72歳。
1935年東京都江東区生まれ享年72。鎌倉高等学校(現・鎌倉学園高等学校)卒。劇団CBCから劇団現代劇場を経て、劇団テアトル・エコーへ。
界大ベテランの声優で、TV番組「仮面ライダー」のナレーション「仮面ライダー本郷猛(一文字隼人)は改造人間である……」のほか「トリビアの泉」「特捜最前線」などのナレーションを担当した。

自民党元衆院議員で第78代内閣総理大臣の宮澤喜一、老衰のため東京都渋谷区の自宅で28日死去、87歳。
1919年東京生まれ。41年東京帝国大学法学部卒。翌年大蔵省に入省。沼津税務署長などを経て、終戦時は本省で戦争保険を担当。49年池田勇人蔵相秘書官として、サンフランシスコ講和条約の下交渉に携わった。
池田の勧めで政界入りを決意し、53年参院で初当選。67年衆院に鞍替えし、以来連続12回当選。経企庁長官、通産相、外相、官房長官、自民党総務会長などを務めた。
86年9月前首相(当時)の鈴木善幸から池田派に連なる「宏池会」を継承。下内閣の副総理・蔵相だった88年12月リクルートコスモス未公開株取得に関する問題で辞任。
91年11月竹下派(当時)の支援を受け、72歳で首相就任。政治改革法案の取りまとめに失敗し、93年6月野党提出の内閣不信任決議案が自民党内の造反で可決。衆院解散に打ってでたが過半数を確保できず、責任を取り同年8月退陣。
その後、細川護煕による非自民の連立政権が誕生し、「55年体制」の幕引き役となった。
その後、小渕・森内閣で、蔵相・財務相に就任。「平成の高橋是清」ともてはやされたが、バブル崩壊後の経済再生は果たせなかった。
03年10月小泉純一郎前首相の要請を受け入れ衆院議員を引退。

米ファッションデザイナーのリズ・クレイボーン(Liz Claiborne)、ニューヨークの病院で26日死去、78歳。
1929年ベルギー生まれ。10歳で家族とともに米国移住。ニューオルレアンで育つ。ヨーロッパで美術を学び49年帰国。ティナ・リーサ(Tina Leser)社でファッションデザインの仕事を始める。
76年夫らとともに米大手ファッション専門チェーンのリズ・クレイボーン社を創業。働く女性層に向け婦人服やアクセサリーを販売し強い支持を得る。89年会社経営から退いた。

米天文学者のケネス・フランクリン(Kenneth Franklin)、心臓疾患のためコロ
ラド州ボルダーで18日死去、84歳。
1923年カリフォルニア州アラバマ生まれ。カリフォルニア大学バークレー校卒業。54-56年ワシントンDCのカーネギ研究所で電波天文学の研究員となる。この間の55年バーナード・バーク(Bernard Burke)とともに木星からの電波放出を発見した。惑星の電波放出を始めて捉えたものとなる。
56−84年まで米ハイデン・プラネタリウム勤務。その間ニューヨーク大学など数多くの大学で教鞭をとる。75-97年までニューヨークタイムズ紙に毎日の暦情報を執筆するなど、天文学者として幅広く知られた。

川柳作家でふあうすと川柳社副主幹の福島直球(本名:孝二)、呼吸不全のため27日死去、80歳。
1926年神戸市生まれ。51年国立神戸療養所に松風川柳会が創立され川柳を始める。椙元紋太のに師事。
54年ふあうすと川柳社同人となる。96年西宮川柳同好会(現:甲子園川柳社)会長、99年ふあうすと川柳社副主幹兼事務局長。03年全日本川柳協会常任幹事。
書家で東京書道会理事長の野口白汀(本名:林造)、急性硬膜下血腫のため埼玉県熊谷市の病院で27日死去、76歳。
1931年埼玉県生まれ。松井如流に師事し、書を学ぶ。日展会員、毎日書道会理事、東京書道会理事長などを務め、大東文化大学名誉教授、東京大学書道研究会講師。NHKラジオ「心の時代」、NHK衛星テレビ「短歌・俳句スペシャル」などに出演。
米数学者のジョン・トッド(John Todd)、米カリフォルニア州パサデナの自宅で21日死去、96歳。
1911年アイルランド生まれ。ベルファストで育つ。31年ベルファスト・クウィーンズ大学卒業後、ケンブリッジ大学に進む。戦時中は英海軍に所属、戦争末期にはドイツの数学研究所を守ることに尽力した。
戦後、米国立応用数学研究所の設立に際して47年渡米。その後コンピューターの研究に従事する。57年からカリフォルニア工科大学で教鞭を取る。現在のコンピューターは、トッドの数学理論を応用したものを基にしているといわれる。
1911年アイルランド生まれ。ベルファストで育つ。31年ベルファスト・クウィーンズ大学卒業後、ケンブリッジ大学に進む。戦時中は英海軍に所属、戦争末期にはドイツの数学研究所を守ることに尽力した。
戦後、米国立応用数学研究所の設立に際して47年渡米。その後コンピューターの研究に従事する。57年からカリフォルニア工科大学で教鞭を取る。現在のコンピューターは、トッドの数学理論を応用したものを基にしているといわれる。

アラブ世界で最も知られたイラクの女性詩人ナジク・アル・マライカ(Nazik al-Malaika)、エジプト・カイロの病院で21日死去、85歳。
砂漠の墓地に埋葬された。ここ数年パーキンソン病などを患っていた。
1922年イラクの首都バグダッド生まれ。44年バグダッド学芸大学文学部アラビア学科卒業。4
7年処女詩集「Night's Lover」、49年第二詩集「sparks of ashes」を出版。夜をモチーフにした詩などが国際的な評価を得る。51年と54年米国に滞在し、ウィスコンシン大学で比較文学を研究、修士号を得る。57年第三詩集「Bottom of the Wave」、68年第四詩集「Tree of the Moon」を出版。
61年結婚するが、2年後に夫が死亡。フセインのバース党が政権掌握した2年後の70年イラクを離れクウェートに移住、90年にフセインがクウェートに侵攻すると、カイロに亡命した。
【関連書物】
・「Nazik Al Malaeka」 Hayat Shrara (著)
元プロ野球選手でのち阪神、近鉄スカウトを務めた河西俊雄、慢性腎不全で25日死去、87歳。
1920年兵庫県姫路市生まれ。県立明石中学(現:明石高校)から明治大学に進学。46年グレートリングに入団し、46-48年まで3年連続盗塁王を獲得。1リーグ制最多盗塁記録66盗塁を記録した。盗塁成功率は0.825。
50年大阪タイガースに移籍。53-55年まで二軍監督・コーチを兼任。58年からスカウトに転進。藤田平、江夏豊、山本和行、掛布雅之らを担当。76年退職。
77年近鉄バファローズのスカウト部長に就任。大石大二郎、金村義明、野茂英雄、中村紀洋ら担当した。
1920年兵庫県姫路市生まれ。県立明石中学(現:明石高校)から明治大学に進学。46年グレートリングに入団し、46-48年まで3年連続盗塁王を獲得。1リーグ制最多盗塁記録66盗塁を記録した。盗塁成功率は0.825。
50年大阪タイガースに移籍。53-55年まで二軍監督・コーチを兼任。58年からスカウトに転進。藤田平、江夏豊、山本和行、掛布雅之らを担当。76年退職。
77年近鉄バファローズのスカウト部長に就任。大石大二郎、金村義明、野茂英雄、中村紀洋ら担当した。

文化発信基地パルコをリードしたパルコ元会長の増田通二、急性心不全のため21日死去、81歳。
1926年東京生まれ。東京大学哲学科を卒業。定時制高校教師を8年勤めた後、西武百貨店に入社。
69年池袋パルコ、73年渋谷パルコをオープンさせ、84年社長就任。全国の主要都市にパルコを開店させるとともに、演劇、出版、芸術など文化活動に力を注ぎ、独特の広告、奇抜なイベントを演出。パルコ文化の華を咲かせた。
88年会長に就任し、翌年退社。
94年那須高原(栃木県)にフランスの女性造形作家ニキ・ド・サンファル(Niki de Saint Phalle)の作品を集めたニキ美術館を設立した。

福島県白河市長の成井英夫、肝細胞癌破裂のため栃木県の自治医大付属病院で26日死去、54歳。
成井市長は24日午前、市内で開かれた県消防協会白河支部幹部大会で来賓あいさつした後、入院したとみられる。
1952年白河市生まれ。福島医科大学医学部卒業。医学博士。
寿泉堂綜合病院外科副部長、新白河中央病院副院長などを経て、91年4月県議に初当選し、02年6月まで3期務める。
02年8月に旧・白河市長に初当選。05年11月白河、表郷、東、大信の旧44市村合併にともないい失職。その後、新・白河市の初代市長に無投票で当選した。

米WWE(World Wrestleing Entertainment)プロレスに所属するプロレスラーのクリス・ベノワ(Chris Benoit)、米アトランタにある自宅で家族とともに25日死亡しているのが発見された。WWEが公式ウェブサイト上で明らかにした。
妻と7歳の長男とともに死亡。警察は無理心中と見て捜査している。
1967年カナダのケベック州モントリオール生まれ。ダイナマイト・キッドに憧れプロレスラーを志し、85年デビュー。87年初来日し新日本道場で訓練生となる。ペガサスキッドとして覆面を被り新日本プロレスに参戦。のちに獣神サンダー・ライガーに敗れ覆面を取る。
93年ワイルドペガサスに改名、新日本ジュニアヘビー級のトップ外国人として活躍した。
95年本拠地をアメリカに移す。日本仕込みのテクニックでマニア層のファンから高い支持を受ける。96年WCWに移籍。世界王座を獲得するも、直後にWCWを退団し、WWF(当時)に入団した。

世界的なドイツの写真家ベルント・ベッヒャー(Bernd Becher)、心臓手術のあと独ロストックで22日死去、75歳。
1931年ドイツの炭鉱町ジーゲン生まれ。53-56年までシュットガルトで絵画と石版画、57-61年までデュセルドルフでタイポグラフィーを学ぶ。デュセルドルフ美術アカデミー在学中の57年にポツダム生まれのヒラ(hilla)と出会い、61年に結婚。
ふたりは59年から、給水塔、冷却塔、溶鉱炉などドイツ近代の産業建築物を撮影。曇り空の日を選び、均質な光線のもとで精細に撮影された写真は、「無名の彫刻」と名づけられ、それらを機能別に組み合わせたタイポロジー(類型学)的の組み合わせた作品でその名を知られる。60年代にコンセプチュアル・アートの文脈で評価された。
写真集写真集「溶鉱炉」、「給水塔」など数多くの作品を残した。
76年以降ベッヒャー夫妻はデュッセルドルフ美術アカデミーで教鞭をとる。同アカデミーで最初の写真科教授に就任し、彼らが指導した写真家アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトルート、トーマス・ルフらはベッヒャー・シューレ(ベッヒャー派)と呼ばれ、80年代末に国際的な評価を得るようになった。
80年代以降現代アートとして高い評価を受けたベッヒャーは、活躍の場を欧州、米国へと拡大。90年ヴェネツィア・ビエンナーレのドイツ代表として金獅子賞、04年ハッセルブラッド国際写真賞を受賞した。

米漫画家のJ.B.ハンデルスマン(J.B.Handelsman)、肺癌のためサザンプトンの自宅で死去、85歳。
1922年ニューヨーク・ブロンクス生まれ。アート・スチューデント・リーグ及びニューヨーク大学卒業。フリーランスのグラフィックデザイナーとして働き、その後英国に渡って漫画を描き始める。英国のユーモア誌「パンチ」で11年間、「ニューヨーカー」誌で45年以上に渡って絵を描いた。ほかに「プレイボーイ」誌などで活躍する。


