Today's Obituary

イタリア映画界の巨匠ミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)、ローマ市内の自宅で30日死去、94歳。
1912年イタリア中部フェラーラ生まれ。ボローニャ大学経済学部卒業。
35年地方紙の映画記者となる。40年ローマに転居。ロベルト・ロッセリーニ監督やルキノ・ビスコンティ監督に師事。50年「愛と殺意」で監督デビュー。
56年「女ともだち」でヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞。60年「情事」でカンヌ国際映画祭審査員賞。61年「夜」でベルリン国際映画祭金熊賞。62年アラン・ドロン主演「太陽はひとりぼっち」でカンヌ国際映画祭審査員特別賞。64年「赤い砂漠」でヴェネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞。67年「欲望」でカンヌ国際映画祭パルム・ドール賞。カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの3大映画祭すべてで最高賞受賞という偉業を達成した。
95年80歳を超えて「愛のめぐりあい」をヴィム・ヴェンダーズ監督と共作。米アカデミー賞名誉賞を受賞した。

男女雇用機会均等法の実現などに取り組んだ弁護士の中島通子、水難事故のため米国ハワイ州ホノルル市で29日死去、71歳。27日から家族らとハワイを旅行中で、同市内ハナウマ湾でシュノーケリング中に溺れ、搬送先の病院で亡くなった。
1935年東京都生まれ。63年東京大学文学部・同法学部を卒業。67年弁護士登録。専門は労働法などで「働く女性のための弁護団」共同代表、「女性の権利に関する委員会」委員長などを歴任。男女雇用機会均等法の実現などに尽力したほか、近年はパートや派遣社員として働く女性の待遇改善などの問題に取り組んでいた。

米プロフットボールNFLのフォーティナイナーズ(49ners)監督として1980年代にスーパーボウルを3度制した名将ビル・ウォルシュ(William Ernest Walsh)、白血病のため30日死去、75歳。
1931年ロサンゼルス生まれ。カリフォルニア州立サンホセ大学卒業。66年オークランド・レイダーズを皮切りにプロフットボールのコーチを始める。パスを主体にしながらランを組み合わせた「ウエストコースト・オフェンス」と呼ばれる攻撃理論を考案。QBモンタナを軸に49ners黄金時代を築き。81年・84年・88年の3回にわたって同チームをスーパーボウル優勝に導いた。

黒澤明やフェデリコ・フェリーニとともに20世紀の3大巨匠といわれるスウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマン(Ernst Ingmar Bergman)、同国南部のフォーレ島(ゴトランド島の北の島)にて30日死去、89歳。
1918年スウェーデンの大学都市ウプサラ生まれた。父親は牧師。ストックホルム高校(現大学)在学中に学生演劇に熱中。脚本家見習いとして映画会社に就職。
44年自作脚本「もだえ」の映画化で助監督を務める。46年「危機」で監督デビュー。52年不良少女の行動描いた「不良少女モニカ」や、56年ペスト流行の中世を舞台にした「第七の封印」が高く評価される。57年老教授の孤独を描いた「野いちご」でベルリン映画祭金熊賞を受賞。
“神の沈黙”3部作として名高い「鏡の中にある如く」「冬の光」「沈黙」のほか、「処女の泉」「ある結婚の風景」「秋のソナタ」などなど映画史に残る名作を発表。82年自伝的作品「ファニーとアレクサンデル」を撮影後、映画監督を引退。しかし、03年に自身の監督作品「サラバンド」を発表し、20年ぶりに映画監督として復帰した。
一方で、演劇界でもスウェーデン王立劇場の総監督を務めるなど活躍。87年同劇場来日公演でストリンドベリ作「令嬢ジュリー」、90年能の様式を取り入れた三島由紀夫作「サド侯爵夫人」を上演。91年高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)を受賞した。
兄のダークは外交官。姉のマルガレータは小説家。5度の結婚で8人の子供をもうけた。

平和活動家でベ平連創設者でもある作家の小田実(Oda Makoto)、東京都中央区の病院で30日死去、75歳。癌で闘病中だった。
1932年大阪市生まれ。57年 東京大学文学部言語学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科西洋古典学専攻修士課程入学。58年フルブライト基金を受け、ハーバード大学大学院に留学。68年世界各地を旅行し「何でも見てやろう」を出版、ベストセラーとなった。70年開高健や高橋和巳らと季刊同人誌「人間として」発刊。60nennannpo
60年安保の時期から平和運動を開始する。ベトナム戦争期に「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)を結成。湾岸戦争終結後の91年米紙ニューヨークタイムズに「国際紛争は武力では解決できない」(International conflict cannot be resolved by military force)とする意見広告を掲載する81人の呼びかけ人に名を連ねた。近年は護憲を掲げる「九条の会」の呼び掛け人の1人となる。
97年「アボジを踏む」で川端康成文学賞受賞。「HIROSHIMA」でアジア・アフリカ作家会議ロータス賞。
92年から2年間ニューヨーク州立大学で「日本学」を教える。ほかメルボルン大学、西ドイツのベルリン自由大学などで教壇に立った。妻は在日朝鮮人の画家玄順恵(ヒョン・スンヒェ)。

フランスの俳優ミシェル・セロー(Michel Serrault)、フランス北西部オンフルールの別荘で29日死去、79歳。
1928年パリ郊外のエソンヌ県ブリュノワ生まれ。10代からコメディアンとしてナイトクラブなどで活動、相棒のジャン・ポワレとの漫才で人気を得る。54年に映画界入り。78年「Mr.レディMr.マダム」、95年「とまどい」、00年「ルーヴルの怪人」、05年「戦場のアリア」など130本以上の映画に。フランス映画の最高賞「セザール賞」主演男優賞を3度受賞した。

“プロレスの神様”として知られた元プロレスラーのカール・ゴッチ(Karl Gotch、本名:カール・イスターツ=Karl Istaz)、ロリダ州タンパ市にて29日死去、82歳。
1924年ドイツ・ハンブルク生まれ(一説ではベルギー出身)。アマチュア時代にグレコローマンとフリースタイルレスリングでベルギー王座を各7回獲得。48年ロンドン五輪のグレコローマンとフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場。50年"プロレスデビュー。51年より通称「蛇の穴」と呼ばれるイギリスのビリー・ライレージムでランカシャーレスリングを練習。
59年カール・クラウザーのリングネームで米国進出。61年日本プロレス参戦。吉村道明を相手に得意技ジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開。同年リングネームをカール・ゴッチへ改める。
68年日本に移り住み、日本プロレスのコーチに就任。アントニオ猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。のちUWFの顧問を務めるなど日本格闘技界に貢献した。
戦後の青森県川柳界の振興に貢献した川柳作家の杉野草兵、病気のため青森市内の病院で12日死去、75歳。
1932年青森市生まれ。父は川柳作家の杉野十佐一。大学卒業後、東京の製薬会社に勤務。帰郷後の59年むつ市で薬店開業、薬剤師として国立青森病院薬剤科長などを歴任。
そのかたわら57年に川柳を始め、川上三太郎に師事。60年高田寄生木らと「下北川柳社」を創設し、機関誌「かもしか」を全国に広める。76年研究会「Cの会」結成、川柳界の芥川賞をめざす川柳Z賞を設立した。
04年第57回東奥賞を受賞。
1932年青森市生まれ。父は川柳作家の杉野十佐一。大学卒業後、東京の製薬会社に勤務。帰郷後の59年むつ市で薬店開業、薬剤師として国立青森病院薬剤科長などを歴任。
そのかたわら57年に川柳を始め、川上三太郎に師事。60年高田寄生木らと「下北川柳社」を創設し、機関誌「かもしか」を全国に広める。76年研究会「Cの会」結成、川柳界の芥川賞をめざす川柳Z賞を設立した。
04年第57回東奥賞を受賞。
落ちこぼれをつくらない教育を実践した私立篠ノ井旭高校(現:長野俊英高校)元校長の若林繁太、肝細胞癌のため長野市の自宅で27日死去、82歳。
1925年長野市うまれ。明治大学大学院修了後、長野市の篠ノ井旭高校の教諭を務め、74年校長就任。不登校生徒や非行歴のある生徒、他校を中退した生徒らを積極的に受け入れ、立ち直らせた。その体験をまとめた著書「教育は死なず」(78年)がベストセラーとなり、81年映画化された。
85年同校退職。その後も、愛知県新城市の私立黄柳野高校の設立に尽力した。
1925年長野市うまれ。明治大学大学院修了後、長野市の篠ノ井旭高校の教諭を務め、74年校長就任。不登校生徒や非行歴のある生徒、他校を中退した生徒らを積極的に受け入れ、立ち直らせた。その体験をまとめた著書「教育は死なず」(78年)がベストセラーとなり、81年映画化された。
85年同校退職。その後も、愛知県新城市の私立黄柳野高校の設立に尽力した。
歌人の土屋正夫、肺炎のため千葉市中央区の病院で27日死去、92歳。
1915年千葉県生まれ。教職のかたわら短歌を詠み続けた。歌誌「国民文学」編集委員、同「軽雪」を主宰。99年歌集「鳴泉居」で日本歌人クラブ賞。ほか歌集に「黄金比憧憬―土屋正夫第十八歌集」など。
1915年千葉県生まれ。教職のかたわら短歌を詠み続けた。歌誌「国民文学」編集委員、同「軽雪」を主宰。99年歌集「鳴泉居」で日本歌人クラブ賞。ほか歌集に「黄金比憧憬―土屋正夫第十八歌集」など。

農業のかたわら文筆活動を続けた作家の薄井清、多発性骨髄腫のため東京都町田市の病院で27日死去、77歳。
1930年東京・町田生まれ。実家は養蚕農家。49年日本獣医畜産専門学校(現日本獣医大学)卒。東京都農業改良普及員に採用され、南多摩第四地区(現町田市)に配属される。47年退職し、農業と文筆業の兼業となる。
主な著作に「燃焼」(第1回農民文学賞)、「権兵衛の生涯」(第28回地上文学賞)、「都が土を狂わせる」、「土は呼吸する」など。

ハンガリー出身の映画撮影監督のラズロ・コヴァックス(Laszlo Kovacs)、米カリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で22日死去、74歳。
1933年ブダペスト西部の村に生まれる。ナチ占領下で少年時代を過ごす。52-56年ブダペスト劇映画アカデミーで学ぶ。56年ハンガリー動乱の様子を友人と撮影。
61年米国に渡り、さまざまな職業を点々とする。
67年映画「イージー・ライダー」を撮影、一躍その名を知られる。ほかに69年ロバート・アルトマン監督の「雨に濡れた歩道、73年「ペーパームーン」、77年スティーブン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」、同年マーティン・スコセッシ監督の「ニューヨーク・ニューヨーク」などを撮影した。

ドイツの俳優ウルリッヒ・ミューエ(Ulrich Mühe)胃癌のため22、東部ザクセン・アンハルト州ワルベックで日死去、54歳。
ドイツが東西に分断された53年東ドイツのザクセン州グリンマ生まれ。旧東ドイツの劇場、テレビ、映画で俳優として活躍。05年秘密警察や国家保安省(シュタージ)の活動を描いてた「善き人のためのソナタ」(The Lives of Others)で主役の大尉を演じ、ヨーロッパ映画賞で最優秀男優賞受賞。07年同作品はアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。
「青い棘」に出演した女優アンナ・マリア・ミューエは実子。

米国の臨床心理学者アルバート・エリス(Albert Ellis)、心臓や腎臓の機能不全のためニューヨーク市マンハッタンの自宅で24日死去、93歳。
1913年ペンシルバニア州ピッツバーグに生まれ、ニューヨーク育ち。34年ニューヨーク市立大学卒業、47年コロンビア大学で臨床心理学の博士号取得。カレン・ホーナイ研究所で精神分析の訓練を3年間受けるが、その後精神分析と決別する。
55年に心理療法の新しいアプローチとして論理療法(Rational Therapy)を考案。59年アルバート・エリス研究所を設立。62年論理療法を論理情動療法/理性感情療法(Rational-Emotive Therapy:RET)と名称を変更する。
82年のアメリカ心理学会による調査「20世紀にもっとも影響の大きかった心理療法家」ではカール・ロジャーズに次いで、2位に選ばれた。著書の邦訳として「怒りをコントロールできる人、できない人-理性感情行動療法(REBT)による怒りの解決法」(共著)などがある。

ハンガリー出身の劇作家ジョージ・タボリ(George Tabori.)ドイツのメディアによると、23日、ベルリンの自宅で23日死去、93歳。
1914年ブダペストでユダヤ人の家系に生まれる。若いころにベルリンに移り住み、記者となる。35ロンドンに亡命し、BBCで勤務、英国籍を取得する。47年米国移住。ベケットの翻訳などを経て、ハリウッドで脚本家として活躍。53年ヒチコック監督の映画「私は告白する」の脚本を書く。71年ドイツに戻る。肉親をアウシュビッツ強制収容所で失い、ヒトラーの著作「我が闘争」を基にした同名の笑劇でナチスを批判した。



