Today's Obituary

米物理学者で第2次世界大戦中の原爆製造計画「マンハッタン計画」に携わった(Wolfgang Panofsky)、心臓発作のためカリフォリニア州ロスアルトスで24日死去、88歳。
1919年独ベルリン生まれ。プリンストン大学卒業、カリフォリニア工科大学で博士号取得。この頃米市民権を得る。戦時中は「マンハッタン計画」に携わる。
戦後は核軍縮と世界の安全保障推進に尽力。スタンフォード大教授などを勤めた。

アシックス会長・創業者の鬼塚喜八郎、心不全のため神戸市中央区の病院で29日死去、89歳。
1918年鳥取県気高郡明治村(現:鳥取市)の坂口家に生まれる。36年鳥取一中(現:鳥取西高)卒。39年姫路市の陸軍第10師第10連隊に配属。
戦後、神戸の商事会社勤務。鬼塚家の養子となる。49年個人事業「鬼塚商会」創業。同年「鬼塚株式会社」設立。「ONITUKA TIGER」ブランドを生む。56年オニツカタイガーがメルボルンオリンピック日本選手団用のトレーニングシューズとして正式採用。68年全日本運動用品工業団体連合会を設立。
77年ジィティオ、ジェレンクと合併し「アシックス」となり社長就任。92年同会長。

フランスの登山家ルネ・デメゾン(Rene Desmaison)、28日死去、77歳。
1930年フランス南西部ペリゴール地方生まれ。50年代以降1000以上の山に挑んだ現代登山の先駆者。アルプスやヒマラヤ、アンデスなどで114の初登頂記録で樹立。著書に「素手の山」「グランド・ジョラスの342時間」など。

映像ジャーナリストでAPF通信社(東京都港区)の契約記者兼カメラマンの長井健司、ミャンマーの首都ヤンゴンで反軍政デモを取材中に治安部隊の銃で右胸を撃たれ27日死去、50歳。
愛媛県今治市生まれ。東京経済大学卒業。98年からAPFと契約。イラク戦争やパレスチナ、中国と北朝鮮の国境地帯など、危険地域を取材。今回はタイ・バンコクを取材中に隣国ミャンマーでデモが起こり、急遽取材に入った。
詩人の福井桂子(本名:冨田三樹)、大腸癌のため神奈川県鎌倉市の病院で26日死去、72歳。
1935年1月1日青森県八戸市生れ。「P」同人。詩集「荒屋敷」「浦へ」「月の車」など。
夫は作家の三木卓。
1935年1月1日青森県八戸市生れ。「P」同人。詩集「荒屋敷」「浦へ」「月の車」など。
夫は作家の三木卓。

元慶応義塾長で大学審議会会長も務めた石川忠雄、腎不全のため25日死去、85歳。
1922年生まれ。46年慶応大学経済学部卒。48年同大法学部助教授。56−57年までハーバード大学で訪問教授。中国現代史が専門で、同大法学部助手として中国共産党史の研究を端緒に、現代中国の外交政策などアジアの国際政治を扱う。
慶応大では法学部長兼大学院法学研究科委員長を経て、77年塾長就任。93年まで4期16年間務めた。塾外でも大学設置審議会会長、日本私立大学連盟会長、全私学連合代表、臨時教育審議会会長代理、青少年問題審議会会長、大学審議会会長等を歴任。
91年文化功労者、95年勲一等旭日大綬章、00年文化勲章を授与。
脚本家・映画監督の犬塚稔、老衰のため17日死去、106歳。
1901年東京市(東京都台東区)生まれ。台湾の台北市で育ち、台北銀行に就職するも、脚本家を志し退社。24年松竹下加茂撮影所脚本部に入社。27年新人俳優・林長丸(のち長谷川一夫)のデビュー作「稚児の剣法」の脚本・監督を担当。以後売れっ子監督となる。
戦後、東宝(宝塚映画)・大映で各1本監督し脚本に専念。大映に移籍し、勝新太郎主演の「不知火検校」ほか、「座頭市」シリーズの脚本を執筆。
02年NHK-BSドキュメンタリー「「101歳のシナリオ」〜日本映画に生きた男・犬塚稔〜」で紹介される。著書に「映画は陽炎の如く」など。晩年は滋賀県安曇川に在住して執筆を続けてた。
1901年東京市(東京都台東区)生まれ。台湾の台北市で育ち、台北銀行に就職するも、脚本家を志し退社。24年松竹下加茂撮影所脚本部に入社。27年新人俳優・林長丸(のち長谷川一夫)のデビュー作「稚児の剣法」の脚本・監督を担当。以後売れっ子監督となる。
戦後、東宝(宝塚映画)・大映で各1本監督し脚本に専念。大映に移籍し、勝新太郎主演の「不知火検校」ほか、「座頭市」シリーズの脚本を執筆。
02年NHK-BSドキュメンタリー「「101歳のシナリオ」〜日本映画に生きた男・犬塚稔〜」で紹介される。著書に「映画は陽炎の如く」など。晩年は滋賀県安曇川に在住して執筆を続けてた。

国際アウシュビッツ委員会名誉会長のクルト・ユリウス・ゴールドシュタイン(Kurt Julius Goldstein)、ベルリンで24日死去、92歳。
1914年ドイツ西部ドルトムントのユダヤ人家庭に生まれる。33年ナチス台頭により、ルクセンブルクやフランス、パレスチナに逃亡。42年逃亡先のフランスからアウシュビッツ強制収容所に連行。戦後、旧東ドイツの公共放送に勤務。一方で元収容者の組織(国際アウシュビッツ委員会)を通じ人種差別に反対。05年ドイツ政府から最高位勲章を授与。
画家で広島市立大教授の磯江毅、呼吸不全のため兵庫県西宮市の病院で23日死去、53歳。
1954年大阪府生まれ。大阪市立工芸高校卒業。74年スペインに渡り、アカデミア・ペーニャ、王立美術学校に学ぶ。マドリッド「サロン・デ・オトニョ」一等賞、バルセロナ伯爵夫人賞展優秀賞など同地で多数の美術賞を受賞。91年スペイン現代リアリズム展でマドリッド・リアリズムの画家として紹介された。
1954年大阪府生まれ。大阪市立工芸高校卒業。74年スペインに渡り、アカデミア・ペーニャ、王立美術学校に学ぶ。マドリッド「サロン・デ・オトニョ」一等賞、バルセロナ伯爵夫人賞展優秀賞など同地で多数の美術賞を受賞。91年スペイン現代リアリズム展でマドリッド・リアリズムの画家として紹介された。
カナダの写実主義画家 ケン・ダンビー(Ken Danby)、23日カナダ・オンタリオ州北部でカヌーをこいでいた際に死去、67歳。
1940年オンタリオ州生まれ。オンタリオ美術大学で学ぶ。80年代にアメリカズ・カップ(ヨット)やサラエボ五輪の選手を水彩画で描き話題となる。ほか風景をはじめ、アイスホッケーなどスポーツ選手を描いた写実的な水彩画で知られる。
オペラ評論家で元NHKディレクターの増井敬二、肺炎のため東京都新宿区の病院で21日死去、86歳。
1921年東京生まれ。慶應大学経済学部卒業。46年NHK音楽部ディレクター。ラジオのステレオ音楽番組を創始。58年第10回イタリア賞を受賞。オペラ放送を数多く手掛けたほか、NHKイタリア歌劇の演出助手を2度務め、また歌劇「寝太」の演出が好評を博す。
定年後、神奈川大、横浜国大、武蔵大、東京声専音楽学校の講師を務め、音楽評論を続ける。著書に「オペラを知っていますか」「日本オペラ史〜1952」など。
1921年東京生まれ。慶應大学経済学部卒業。46年NHK音楽部ディレクター。ラジオのステレオ音楽番組を創始。58年第10回イタリア賞を受賞。オペラ放送を数多く手掛けたほか、NHKイタリア歌劇の演出助手を2度務め、また歌劇「寝太」の演出が好評を博す。
定年後、神奈川大、横浜国大、武蔵大、東京声専音楽学校の講師を務め、音楽評論を続ける。著書に「オペラを知っていますか」「日本オペラ史〜1952」など。

小歌舞伎音楽囃子の人間国宝で鼓奏者の望月朴清(本名:安倍啓仁)、肝不全のため東京都千代田区の病院で死去、73歳。
1934年歌舞伎音楽囃子の望月流家元で9代目望月太左衛門の長男として東京に生まれる。88年11代目太左衛門を襲名、尾上菊五郎劇団の囃子代表に就任。89年芸術祭賞優秀賞受賞。93年4代目望月朴清を襲名。98年芸術選奨文部大臣賞受賞、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。

「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」と呼ばれるフランスのパントマイム(無言劇)俳優マルセル・マルソー(Marcel Marceau)、パリで22日死去、84歳。
1923年仏北東部ストラスブールでユダヤ人の家系に生まれる。第2次大戦中に父はアウシュビッツ強制収容所で死亡、自身は仏南西部に逃れ、シャルル・ドゴール自由フランス軍などに参加。
戦後、サラ・ベルナール劇場の演劇学校生徒となり、演出家シャルル・デュランの門下生を経て、パントマイム俳優エティエンヌ・・ドクルーに師事。
46年にマイム劇「パディスト」の道化役でデビュー。47年横縞シャツに花つきシルクハット姿の白塗り道化師「ビップ」を創造。劇団を主宰して世界各国で公演し「20世紀のピエロ」と称賛された。55年初来日、以降10回以上来日。
92年新劇団を結成、パリにパントマイムの学校設立。96年にはニューヨークに「マルセル・マルソー財団」を設立する。

元英国防相のイアン・ギルモア(Ian Gilmour)、ロンドンの病院で21日死去、81歳。
1926年生まれ。オクスフォードのイートン・カレッジとバリオル・カレッジで学ぶ。
雑誌編集者などを経て、62年保守党から下院議員に当選。74年ヒース政権で国防相。79年サッチャー政権で国璽尚書となるが、81年更迭。92年上院(貴族院)議員に転じる。

文芸評論家で太宰治研究家の小野正文、急性肺炎で21日死去、94歳。
1913年岩手県久慈市生まれ。旧制青森中学校時代は同学年に太宰治の弟礼治がいた。旧制弘前高校から東京帝国大学法学部に入学。太宰治は旧制中学以来、学校の後輩。
34年太宰や今官一らと同人誌「青い花」を創刊するも、1号で廃刊。13年大学卒業、青森高等女学校兼青森県女子師範学校の教諭となる。戦後は教育庁に勤め、県立図書館長、県立弘前南高校校長、弘前中央高校校長を勤めた。その後、弘前大学医療短期大学、青森中央短期大学で教鞭をとる。弘前ペンクラブ名誉会長でもある。
著書に「太宰治をどう読むか」「太宰治その風土」など。太宰を知る語り部として各地で講演した。




