政財界から文化・スポーツまで、秀でた功績を残した人々の死亡記事-obituary-で綴るブログ「死亡欄」。(敬称略)
Today's Obituary


俳優、声優の、急性肺性心のため東京都多摩市の病院で20日死去、56歳。

1951年東京都杉並区生まれ。東京俳優学校卒。劇団近代座を経て、劇団芸協へ。声優としてアニメ「ドラゴンボールZ」のジース役を演じたほか、日本テレビ系「ザ・ワイド」などのナレーションを担当した。





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米ジャズ・アルトサックス奏者のフランク・モーガン(Frank Morgan)、大腸癌のためミネソタ州ミネアポリスで14日死去、73歳。

1933年ミネアポリス生まれ。ハードバップの誕生とともに、50年代初めにジャズシーンに登場。55年ファーストアルバムをレコーディング。しかし、ヘロイン中毒となり数十年間を獄中で過ごす。約30年を経て80年代中期には奇蹟のカムバックを果たした。





東大名誉教授、元亜細亜大学長で中国を中心とする東アジア政治史を専門とする政治学者の衛藤瀋吉、胃噴門部癌のため自宅で12日死去、84歳。

1923年中国瀋陽市(旧満州奉天)生まれ。東大法学部在学中、学徒動員で陸軍へ。広島にて被爆。復員後、東大法学部卒業。東京大学東洋文化研究所助手、東京工業大学助教授、東京大学教養学部助教授を経て、同教授。この間、コロンビア大学東アジア研究所高級研究員、プリンストン大学客員教授、ハワイ大学客員教授も務める。東大紛争当時は“タカ派”の中心教授の1人といわれた。

東大退官後、青山学院大学教授、亜細亜大学学長、東洋英和女学院院長を歴任。「偏差値より個性値」を唱え一芸一能入試や希望者全員の海外留学など、私大の個性化に尽力。台湾、韓国などに住む元従軍慰安婦の支援団体「女性のためのアジア平和国民基金」の副理事長も務めた。

66年「日本の安全保障力をどう高めるか」で第1回吉野作造賞、96年第7回福岡アジア文化賞(学術研究賞)受賞。「近代中国政治史研究」「日本の進路」「佐藤栄作」など著書多数。




Dan Fogelberg
米ロック歌の手ダン・フォーゲルバーグ(Dan Fogelberg)、前立腺癌のため米メーン州の自宅で16日死去、56歳。


1951年イリノイ州ピオリア生まれ。イリノイ大で美術・舞台を専攻。72年アルバム「Home Free」でデビュー。ジョー・ウォルシュをプロデューサーに迎え74年「Souvenirs」でブレイク。70年代のウエストコースト・ロックを担う立役者のひとりで、「ソフト・ロック」のジャンルを確立したシンガー・ソングライター。ヒット曲に「バンド・リーダーの贈り物」「ロンガー(Longer)」「風に呼ばれた恋」「懐かしき恋人の歌などなど。ナチュラル・サウンドにより"1人クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング"の異名をもつ。

04年から闘病を続けていた。





元プロ野球セ・リーグ審判部副部長の井上忠行、急性心筋梗塞のため沖縄県豊見城市の病院で15日死去、72歳。

1935年福岡県大刀洗町生まれ。八女工業高校を卒業、門司鉄道管理局に就職。57年西鉄ライオンズに内野手として入団。中西太の後釜として一塁手・三塁手の控えをつとめ、64年現役引退。通算記録は実働8年で584試合出場し、945打数170安打の打率1割8分、18本塁打、71打点、3盗塁。63年日本シリーズ出場

引退後セ・リーグ審判員となり、関西審判部の中堅として長年活躍。審判員としての出場記録は通算3263試合、日本シリーズ6回、オールスター6回。87年中日の新人・近藤真一投手が巨人を相手にプロ初登板でノーヒットノーランを達成した試合で球審を務めた。





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ブラジルの柔術家で日本でも総合格闘技で活躍したハイアン・グレイシー(Ryan Gracie)、サンパウロの拘置所で死亡しているのを15日発見された。33歳。

1974年ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。前田光世より柔術を教わったカーロス・グレイシーの次男カーロス・ボブソン・グレイシーの四男で、「グレイシー柔術」一族。

00年8月日本初登場、PRIDE.10で石澤常光(ケンドー・カシン)に勝利。12月PRIDE.12で桜庭和志に判定負け。02年9月PRIDE.21で腕ひしぎ十字固めで大山峻護に勝利。04年12月PRIDE男祭りで安生洋二に腕ひしぎ十字固めで勝利など。PRIDEの戦績は5勝2負。
狂犬、グレイシー一族の問題児の異名をとる。

14日自動車窃盗の罪で拘留されていたサンパウロ市西部の拘置所独房で死亡が確認された。死因は不明だが、心臓発作ともいわれる。逮捕時の尿検査では微量のコカインやマリフアナが検出されたという。





メイ牛山
美容家のメイ牛山(本名:牛山マサコ)、心不全のため東京都内の病院で13日死去、96歳。

1911年山口県防府市生まれ。防府技芸女学校卒業後、29年18歳で単身上京。3年後ハリウッド美容講習所に入る。ジュン牛山として新聞雑誌にヘアスタイルを発表。39年ハリウッド化粧品創設者の牛山清人と結婚後、メイ牛山を名乗り美容家として活躍。

戦後も米国、フランスなどで美容技術を学び、欧米の最新流行を日本に伝え、化粧品開発にもかかわった。酵素の働きを他に先駆けて化粧品に取り入れた「酵素パック」はロングセラーとなる。58年健康食品の開発を手がる。

ハリウッド株式会社会長、ハリウッド美容専門学校学長などを兼任。





美術評論家で武蔵野美術大名誉教授の桑原住雄、心不全のため東京都世田谷区の病院で15日死去、83歳。

1924年広島市生まれ。著書に「日本の自画像」「アメリカ絵画の系譜」。「東山魁夷 美の道、祈りの旅」など。





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米先住民族の俳優でカントリー音楽家のフロイド・ウェスターマン(Floyd Red Crow Westerman)、白血病による合併症のため米ロサンゼルスの病院で13日死去、71歳。

1936年サウスダコタ州の先住民族(ダコタ・インディアン)居留地生まれ。
南北戦争時代を舞台にした90年「ダンス・ウィズ・ウルブズ」で、ケビン・コスナー演じる北軍兵士と交流するインディアン役を演じた。

ダコタ・インディアンの音楽活動や、先住民族の権利向上のための活動にも尽力。00年インィアン・エキスポに参加。





島野
元プロ野球中日で阪神コーチの島野育夫、胃癌のため兵庫県西宮市内の病院で15日死去、63歳。

1944年栃木県生まれ。63年作新学院高を卒業後、明電舎に入る。63年中日入団。68年シーズン途中で南海に移籍し、73年61盗塁を記録、野村克也監督兼捕手のもと南海優勝に貢献。同年から3年連続ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)獲得。76年阪神移籍、80年引退。実働18年で1466試合出場。

引退後、82年守備・走塁コーチに就任。82年大洋戦で審判暴行、無期限出場停止になるが、翌83年解除。84年引退。86年中日に復帰し、星野仙一監督の参謀として優勝に貢献。その後も星野のもとで活躍し、07年阪神2軍監督の役職を平田勝男に譲り、総合特命コーチに就任していた。





花井悠
元プロ野球西鉄ライオンズ選手の花井悠、敗血症で14日死去、75歳。

1932年生まれ。49年の第31回全国高校野球選手権大会で岐阜高のエースとして準優勝。慶応大で外野手に転向し、卒業後は日本石油へ。

57年西鉄に入団。主力メンバーとして黄金時代を築いた。64年現役引退。翌年西鉄の打撃コーチに就任。在籍していた尾崎将司選手にゴルフ転向を勧めた。8年間751試合に出場、通算打率2割5分6厘。

その後プロ野球解説ほか、少年野球の指導に尽力。79−87年までは朝日放送「おはよう朝日です」スポーツコーナーを担当した。





俳人の朔多恭(本名:作田実夫)、頚椎損傷のため神奈川県横須賀市の自宅で3日死去、89歳。

1918年広島県生まれ。自然や風物を描写する明るい句風で、外光派と称された。代表作に評論集「消えやらぬ残像」、句集「海と白桃」「薔薇園にて」など。





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米ロック音楽家で歌手ティナ・ターナーさんの元夫アイク・ターナー(Ike Turner,本名:アイズィアー・ラスター・ターナー・ジュニア)、サンディエゴ郊外の自宅で12日死去、76歳。

1931年米ミシシッピ州生まれ。
40年代後半バンド「キングズ・オヴ・リズム」を結成。ギタリストやピアニストとして活動し、51年ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツの名義でリリースした「ロケット88」がヒット。
60年ティナ・ターナーと結婚。60-70年代に人気デュオとして活躍。66-69年ローリング・ストーンズの米公演の前座も務めた。70年初来日。

78年離婚。その後、家庭内暴力を暴露され、薬物中毒で服役。

91年、アイク&ティナ・ターナー名義でロックの殿堂入り。07年グラミー賞を受賞。





狂言師で和泉流野村又三郎家十二世当主の野村又三郎(本名:信広)、脳腫瘍のため名古屋市中区の病院で12日死去、86歳。

1921年東京都生まれ。生家は和泉流3派の1派。父十一世又三郎に師事し、4歳で初舞台。50年十二世襲名。
82年文化庁芸術祭優秀賞、85年名古屋市芸術特賞、04年松尾芸能賞特別賞を受賞。重要無形文化財総合指定保持者。





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日本小児科医会名誉会長で愛育病院名誉院長の内藤寿七郎、腎不全のため東京都中央区の病院で12日死去、101歳。

1906年東京・牛込生まれ。熊本育ち。31年東京帝国大学医学部卒。

38年愛育病院小児科医長、49年日赤中央病院小児科部長を経て、56年愛育病院院長兼愛育研究所所長に就任。77年愛育病院名誉院長。67年保健文化賞、68年藍綬褒章、79年勲三等瑞宝章。

92年を日本人初のシュバイツァー人間愛賞を受賞。