Today's Obituary

ドイツの指揮者でNHK交響楽団名誉指揮者のホルスト・シュタイン(Horst Walter Stein)、スイスの自宅で27日死去、80歳。
1928年独ラインラント地方のエルバーフェルト(現:ヴッパタール市)生まれ。ケルン高等音楽院で学び、49年ヴッパタール市立劇場合唱指揮者、51年ハンブルク国立歌劇場指揮者。50年代にバイロイト音楽祭でクナッパーツブッシュやカラヤンのアシスタントを務める。その後ベルリン国立歌劇場を経て、63年にマンハイム国立劇場音楽監督。ワーグナー指揮者として世界的に知られた。70年ウィーン国立歌劇場第一指揮者、72年ハンブルク国立歌劇場音楽総監督を務める。
73年初来日して以来、N響とたびたび共演した。
80年、スイス・ロマンド管弦楽団音楽監督、85年バンベルク交響楽団首席指揮者。85−89年までザルツブルク音楽祭に出演した。
96年病気のためバンベルク響を離任、終身名誉指揮者の地位を贈られる。99年プラハの春音楽祭で再び倒れ、活動休止状態となっていた。
在米韓国系ジャーナリストの文明子(ムン・ミョンジャ、英語名Julie Moon)、心臓麻痺のため米バージニア州で21日死去、77歳。
1930年韓国・大邱生まれ。延世大学卒業。その後、明治大卒業後、早稲田大学大学院で国際法を専攻。73年韓国マスコミのワシントン特派員だった際、金大中氏拉致事件を報道したことが問題視され、米国に政治。74年アジア専門の通信社「USアジアニュースサービス」を設立して首都ワシントンでジャーナリスト活動を続けた。韓国の金大中と密接な関係である一方で、北朝鮮指導部や統一教会との太いパイプで知られ、さらには米CIAとも関わりを持っていた。
92年故金日成主席と単独会見したほか、00年金正日総書記と初めて単独会見した。
著書に「朴正熙と金大中-私の見た激動の舞台裏」など。
1930年韓国・大邱生まれ。延世大学卒業。その後、明治大卒業後、早稲田大学大学院で国際法を専攻。73年韓国マスコミのワシントン特派員だった際、金大中氏拉致事件を報道したことが問題視され、米国に政治。74年アジア専門の通信社「USアジアニュースサービス」を設立して首都ワシントンでジャーナリスト活動を続けた。韓国の金大中と密接な関係である一方で、北朝鮮指導部や統一教会との太いパイプで知られ、さらには米CIAとも関わりを持っていた。
92年故金日成主席と単独会見したほか、00年金正日総書記と初めて単独会見した。
著書に「朴正熙と金大中-私の見た激動の舞台裏」など。
元通産事務次官で元日野自動車工業(現:日野自動車)会長の山本重信、老衰のため3日死去、92歳。
1916年長野県生まれ。東京帝国大学を卒業。39年海軍経理学校を卒業後、旧商工省入省。
戦後、通商産業省に組織が変わる。66年通産省事務次官となる。
69年トヨタ自動車工業に入社。同社副社長、トヨタ自動車副会長を務める。その後、日野自動車工業会長も務めた。
1916年長野県生まれ。東京帝国大学を卒業。39年海軍経理学校を卒業後、旧商工省入省。
戦後、通商産業省に組織が変わる。66年通産省事務次官となる。
69年トヨタ自動車工業に入社。同社副社長、トヨタ自動車副会長を務める。その後、日野自動車工業会長も務めた。

エジプトの映画監督ユーセフ・シャヒーン(Youssef Chahine)、カイロの病院で27日死去、82歳。脳内出血で意識不明に陥っていた。
1926年同国北部アレクサンドリア生まれ。アレキサンドリア大学で学んだ後、渡米。2年間パサデナ・プレイハウスで演技を学ぶ。
帰国後、映画製作に取り組み、50年映画監督としてデビュー。以降40本を超す作品を監督した。アラブ諸国の政治抑圧やイスラム原理主義の広がりを正面から批判した作品は国外でも高く評価され「エジプトの巨匠」と称された。
79年「アレキサンドリアWHY?」でベルリン映画祭銀熊賞、97年カンヌ映画祭で功労賞を受賞。カンヌ国際映画祭のパルム・ドールには3度ノミネートされた。

米作曲家のノーマン・デロ・ジョイオ(Norman Dello Joio)、ニューヨーク州イーストハンプトンの自宅で24日死去、95歳。
1913年ニューヨーク生まれ。4歳からピアノ奏者の父に学ぶ。その後、名付け親のパトリック大聖堂のオルガン奏者ピエトロ・ヨンに学ぶ。14歳でシティーアイランドの海の星教会のオルガン奏者兼合唱指揮者となる。
ジュリアード音楽院、イェール大学で作曲を学び、ベルナルト・ワーヘナールやパウル・ヒンデミットに師事。
40年代後半にはアメリカの重要な作曲家の1人とみられるようになった。多様なジャンルの作品を書き、合唱曲がとくに知られる。。吹奏楽ではミシガン州立大学ウィンド・アンサンブルのために書かれた「ハイドンの主題による幻想曲」が知られる。他の作曲作品に「ルーブルからの情景」「振り付け」「弦楽合奏のための3つの踊り」など。
44−50年までサラ・ローレンス大学とマンネス音楽学校で教える。その後、ボストン大学で教授と学部長を務めた。78年退任。ロングアイランドに移住し、作曲を続けた。
56年にジュリアード音楽院で初演された「知恵の書による瞑想」で、57年ピューリッツァー賞を受賞。このほか受賞多数。

コンピューター科学者で「最後の授業」で知られる米カーネギーメロン大教授のランディ・パウシュ(Randy Pausch)、膵臓癌による合併症のため米東部バージニア州の自宅で25日死去、47歳。
1960年メリーランド州ボルチモア生まれ。ブラウン大学卒業、カーネギーメロン大学で博士号取得。高校生・大学生のための3Dアニメーション作成システム「Alice」を開発したバーチャルリアリティー(仮想現実)研究の第一人者。
末期癌を告知された後の昨年9月に行った、自分の夢や生きる意味について語った最後の講義がインターネットで話題を呼んだ。この講義は「最後の授業」として出版され、日本など世界各国で翻訳された。授業では自身の病気を明らかにした上で、「子どものころの夢をどう実現するか」をテーマにユーモアあふれる講義を行った。
指紋押捺拒否第1号として反対運動の象徴的存在となった在日韓国人で団体役員の韓宗碩(ハン・ジョンソク)、呼吸不全のため東京都町田市の病院で24日死去、79歳。
韓国慶尚北道生まれ。1980年に在日外国人として初めて指紋押なつを拒否。この運動を巡り、当時の外国人登録法違反罪で全国で最初に起訴されたが、89年最高裁は昭和天皇死去に伴う免訴判決を言い渡した。
一方、押捺拒否行動は「たった一人の反乱」として注目を集め、80年代に高まった反対運動の原動力になった。その後、外国人の指紋押なつは人権侵害との批判が強まり、外国人を犯罪人のように扱う制度への反対運動が全国に拡大した。2000年に全廃された。
韓国慶尚北道生まれ。1980年に在日外国人として初めて指紋押なつを拒否。この運動を巡り、当時の外国人登録法違反罪で全国で最初に起訴されたが、89年最高裁は昭和天皇死去に伴う免訴判決を言い渡した。
一方、押捺拒否行動は「たった一人の反乱」として注目を集め、80年代に高まった反対運動の原動力になった。その後、外国人の指紋押なつは人権侵害との批判が強まり、外国人を犯罪人のように扱う制度への反対運動が全国に拡大した。2000年に全廃された。
作家でフリー編集者の水沢周、肺炎のため横浜市の病院で6月7日死去、78歳。
1930年東京生まれ。54年早稲田大学文学部卒。NHK、国際文化振興会、日本読書新聞等を経てフリー編集者兼ライターとなる。
96年の「米欧亜回覧の会」発足当時よりに参加し、「実記を読む会」の指導役として現代語への試訳を牽引した。同会は「岩倉使節団」やその旅の記録である「米欧回覧実記」に関心を抱く人々のサロンとして、「岩倉使節団」の研究家でノンフィクション作家の泉三郎を中心に約80名の同好の士によって設立された。
明治初期に欧米諸国を視察した、岩倉具視ら「岩倉使節団」の報告書「米欧回覧実記」を現代語訳した。
他の著書に「八千代の三年 昭和十九年秋〜二十二年秋へ」「青木周蔵 日本をプロシャにしたかった男」など。
1930年東京生まれ。54年早稲田大学文学部卒。NHK、国際文化振興会、日本読書新聞等を経てフリー編集者兼ライターとなる。
96年の「米欧亜回覧の会」発足当時よりに参加し、「実記を読む会」の指導役として現代語への試訳を牽引した。同会は「岩倉使節団」やその旅の記録である「米欧回覧実記」に関心を抱く人々のサロンとして、「岩倉使節団」の研究家でノンフィクション作家の泉三郎を中心に約80名の同好の士によって設立された。
明治初期に欧米諸国を視察した、岩倉具視ら「岩倉使節団」の報告書「米欧回覧実記」を現代語訳した。
他の著書に「八千代の三年 昭和十九年秋〜二十二年秋へ」「青木周蔵 日本をプロシャにしたかった男」など。
関東大学ラグビー連盟副会長で元法政大ラグビー部監督の石井徳昌、胃癌のため横浜市中区の病院で17日死去、71歳。
東京都生まれ。65年法政大ラグビー部を率いて第1回全国大学選手権で優勝。68年第4回大会でも優勝。早稲田大と激しい対決を繰り返し、人気を集めた。
東京都生まれ。65年法政大ラグビー部を率いて第1回全国大学選手権で優勝。68年第4回大会でも優勝。早稲田大と激しい対決を繰り返し、人気を集めた。

米スポーツ記者のジェローム・ホルツマン(Jerome Holtzman)、心臓発作のためイリノイ州エバンストンで19日死去、82歳。
1926年イリノイ州シカゴ生まれ。43年地元のシカゴ・デイリー・ニュース紙の見習いとなる。その後シカゴ・サンズ紙やシカゴ・トリビューン紙など、地元の新聞で50年以上に渡って記事を書き続ける。90年野球記者に与えられるテイラー・スピンクス賞受賞など。
シカゴ・トリビューン紙の野球記者だった60年、「セーブ」の考えを提唱。61年から野球週刊誌「スポーティング・ニューズ」が誌上で表彰することとなった。当初は2点リードで登板し1イニングを完全に投球した場合、あるいは同点または勝ち越し点になる打者と対戦しリードを守り切った場合、と現在より厳しい条件だった。
セーブはその後、野球規則委員会の規則改正に影響し、その規定が69年「公認ルール・ブック」に取り入れられた。







