Today's Obituary

米映画監督で俳優のシドニー・ポラック(Sydney Pollack)、癌のため米ロサンゼルス郊外の自宅で26日死去、73歳。
1934年インディアナ州ラファイエット生まれ。高校卒業後、俳優を目指してニューヨークへ出る。ネイバーフッド・プレイハウスで学び、俳優として活動。60年代にはテレビ番組を監督するようになり、ハリウッドへ。
65年「いのちの紐」で映画監督デビュー。69年「ひとりぼっちの青春」や73年「追憶」で高い評価を得た。85年「愛と哀しみの果て」でアカデミー作品賞や監督賞など7部門を獲得した。
他の監督作品に66年「雨のニューオリンズ」、74年「ザ・ヤクザ」、82年「トッツィー」、93年「ザ・ファーム/法律事務所」など。
米映画監督のアレックス・グラスホフ(Alex Grasshoff)、脚の手術による合併症のためロサンゼルスの自宅で5日死去、79歳。
1930年マサチューセッツ州ボストン生まれ。USC映画学校を卒業、パラマウント社で編集の仕事を始める。
69年「ヤング・アメリカンズ」でアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞に選ばれたが、67年公開で受賞対象外だったことが授賞式後に判明。別の作品が受賞という異例の事態となり、オスカー像も返還された。
76年円谷プロダクションとの日米合作SF映画「最後の恐竜 極底探検船ポーラボーラ」で小谷承靖と共同監督を務めた。
1930年マサチューセッツ州ボストン生まれ。USC映画学校を卒業、パラマウント社で編集の仕事を始める。
69年「ヤング・アメリカンズ」でアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞に選ばれたが、67年公開で受賞対象外だったことが授賞式後に判明。別の作品が受賞という異例の事態となり、オスカー像も返還された。
76年円谷プロダクションとの日米合作SF映画「最後の恐竜 極底探検船ポーラボーラ」で小谷承靖と共同監督を務めた。

米映画監督のジュールス・ダッシン(Julius Dassin)、インフルエンザのためギリシア・アテネの病院で31日死去、96歳。
1911年米東部コネティカット州ミルトンタウン生まれ。ロシア系ユダヤ人の家系。ヨーロッパで演劇を学んだ後、ニューヨークとして舞台俳優として活躍をはじめる。40年RKO社に助監督として入社、アルフレッド・ヒッチコック監督などのもとで働く。42年年長編デビュー。47年「真昼の暴動」や48年「裸の町」、49年「深夜復讐便」などがセミドキュメンタリー形式映画として評価を得る。
50年代の「赤狩り」で共産党員としてブラックリストに名前が挙がり、欧州に活動拠点を移す。
55年フィルムノワールの傑作「男の争い」でカンヌ映画祭監督賞を受賞。「日曜はダメよ」「トプカピ」などを発表。60年ギリシャ人女優のメリナ・メルクーリと結婚、94年死別。。

英国の映画監督アンソニー・ミンゲラ(Anthony Minghella)、癌手術後の合併症のためロンドンの病院で死18日去。54歳。
1954年英南部ワイト島生まれ。ハル大学卒業。テレビ界でキャリアをスタート、「モース警部」シリーズなどの脚本を手掛けた。
91年「愛しい人が眠るまで」で映画監督としてデビュー。96年「イングリッシュ・ペイシェント」で米アカデミー賞の作品賞、監督賞など9部門受賞。99年「太陽がいっぱい」をパトリシア・ハイスミスの原作に忠実にリメイクした「リプリー」でもアカデミー脚色賞などにノミネートされた。他の作品に「コールドマウンテン」「こわれゆく世界の中で」など。
イギリス映画協会会長を務めていた。
米映画編集者のピーター・ジナー(Peter Zinner)、ロサンゼルス郊外の医療施設で13日死去、88歳。
1919年オーストリアのウィーン生まれ。ナチスのユダヤ人迫害を避け、38年フィリピンに脱出、40年米国へ。
タクシードライバーや無声映画のピアノ演奏者を経て、60年代から映画編集者。78年ベトナム戦争の狂気を扱ったマイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」でアカデミー編集賞を受賞。その他エミー賞を2度受賞。
編集を手がけた主な作品に92年「グラディエーター」、70年「ゴッド・ファーザー」、72年「ゴッドファーザー PART2」、67年「冷血」など。
1919年オーストリアのウィーン生まれ。ナチスのユダヤ人迫害を避け、38年フィリピンに脱出、40年米国へ。
タクシードライバーや無声映画のピアノ演奏者を経て、60年代から映画編集者。78年ベトナム戦争の狂気を扱ったマイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」でアカデミー編集賞を受賞。その他エミー賞を2度受賞。
編集を手がけた主な作品に92年「グラディエーター」、70年「ゴッド・ファーザー」、72年「ゴッドファーザー PART2」、67年「冷血」など。




