Today's Obituary
関東大学ラグビー連盟副会長で元法政大ラグビー部監督の石井徳昌、胃癌のため横浜市中区の病院で17日死去、71歳。
東京都生まれ。65年法政大ラグビー部を率いて第1回全国大学選手権で優勝。68年第4回大会でも優勝。早稲田大と激しい対決を繰り返し、人気を集めた。
東京都生まれ。65年法政大ラグビー部を率いて第1回全国大学選手権で優勝。68年第4回大会でも優勝。早稲田大と激しい対決を繰り返し、人気を集めた。

1984年夏の甲子園優勝投手の石田文樹(プロ野球登録名:石田大也=いしだ・ともや)、直腸癌のため横浜市保土ケ谷区の病院で15日死去、41歳。
66年茨城県生まれ。83年春、84年春・夏と甲子園にエースとして出場。84年夏は決勝で清原和博(オリックス)や桑田真澄(元巨人)らを擁する大阪・PL学園を下し優勝した。
早稲田大学にスポーツ特待生として進学するが、同大野球部退部と共に半年で中退。社会人の日本石油に入社。88年ドラフトで横浜大洋ホエールズ5位指名を受け入団。中継ぎ投手として働いた。94年「大也」に改名するも同年秋引退。その後横浜に残留し、打撃投手に転向。98年名前を「文樹」に戻した。プロ通算は25試合登板、1勝0敗。
1933年全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会)の準決勝で中京商(現:中京大中京高)と延長25回を戦った元明石中二塁手の嘉藤栄吉、前立腺癌で28日死去、90歳。
兵庫県明石市生まれ。33年夏の準決勝では、0-0で迎えた延長25回裏無死満塁で二塁ゴロを処理し。バックホームの送球がわずかにそれ、サヨナラの走者が生還した。結果、愛知の中京商に0-1で敗れた。球史に残る4時間55分の熱戦だった。
卒業後、旧満州(中国東北部)の実業団チームで活躍。戦後は内外ゴム(明石市)で硬式球の感覚に近い準硬式球「トップボール」の開発に尽力し、国内に広く普及させた。
当時の甲子園出場メンバーで最後の生存者だった。
兵庫県明石市生まれ。33年夏の準決勝では、0-0で迎えた延長25回裏無死満塁で二塁ゴロを処理し。バックホームの送球がわずかにそれ、サヨナラの走者が生還した。結果、愛知の中京商に0-1で敗れた。球史に残る4時間55分の熱戦だった。
卒業後、旧満州(中国東北部)の実業団チームで活躍。戦後は内外ゴム(明石市)で硬式球の感覚に近い準硬式球「トップボール」の開発に尽力し、国内に広く普及させた。
当時の甲子園出場メンバーで最後の生存者だった。

元プロレスラーで元ラグビー日本代表のグレート草津(本名:草津正武)、食道癌の肺への転移により静岡県長泉町の病院で21日死去、66歳。
1942年熊本市生まれ。熊本工業高校、八幡製鐵所でラグビー選手として活躍。八幡製鉄時代の63年俊足ロックとして日本代表で1試合出場。
65年日本プロレスに入団、ジャイアント馬場の付け人となる。66年本間和夫戦でデビューするが同年退団。吉原功とともに国際プロレスの旗揚げに参加。68年TBS定期放送初回でルー・テーズに挑戦したTWWA世界ヘビー級選手権でKO敗戦。その後IWA世界タッグ王座を計5人のパートナーと長く保持。英国西部ヘビー級および同南部ヘビー級王座、ヨーロッパタッグ王座などシングルタイトルも獲得。
80年6月、試合中にアキレス腱断裂の重傷を負い長期欠場。81年引退。全盛時の身長192cm、体重118kg。
「グレート草津」のリングネームは元K-1選手の次男・賢治が継承していた。
元プロ野球選手の櫟信平(Ichii Shinpei)、老衰のため横浜市の病院で10日死去、82歳。
1925年京都市生まれ。同志社大学在学中に3シーズン連続で首位打者を獲得。49年東急フライヤーズ(現:日本ハム)に内野手として入団。1年目から99試合に出場したが、大下弘とトラブルを起こし、50年大阪タイガース(現:阪神)に移籍、53年に現役引退。313試合出場、通産打率.242、本塁打25、打点125、盗塁10。
60−63年阪神の打撃コーチを務めたのち阪神、近鉄(現:オリックス)でスカウトとして活動。阪神では掛布雅之の獲得に携わった。
1925年京都市生まれ。同志社大学在学中に3シーズン連続で首位打者を獲得。49年東急フライヤーズ(現:日本ハム)に内野手として入団。1年目から99試合に出場したが、大下弘とトラブルを起こし、50年大阪タイガース(現:阪神)に移籍、53年に現役引退。313試合出場、通産打率.242、本塁打25、打点125、盗塁10。
60−63年阪神の打撃コーチを務めたのち阪神、近鉄(現:オリックス)でスカウトとして活動。阪神では掛布雅之の獲得に携わった。






